オークハウス新宿南口」カテゴリーアーカイブ

Death Penalty 3

を主張する側はその根拠を社会全体の利益のためと言いますが、恨みを晴らすことが本当によいことなのでしょうか。

それは無難な方法であり、死刑というシステムに任せるのではなく、社会にとって犯罪者を許すこと、犯罪者にとって罪の重大さを反省すること、ができるかが試されているように思います。

私の意見は現時点では理想的であると自覚しています。しかし、理想的な意見は誰かが主張しなければその方向に向かうことはないと思います。一方、犯罪者をすぐに執行猶予によって釈放したり、刑期に期限を付すことには否定的です。この点、終身刑を採用するのが妥当な中道路線かと思われます。

いつでも起こりうる人間の間違いによるリスクを減らし、建設的な社会が築かれますように。(なお、ブログなので正確なデータや厳密な論証を伴っていないことを付記しておきます。が、(ブログにとって重要な)私の内心からくる素直な心情を吐露しました。)

Death Penalty 2

ないでしょう。

では、ある10人のグループ内で意見が相違し、深刻な対立が生じたとします。その対立が9人と1人の対立だったとして、9人が冷静な会合を行った結果、1人に「君のやった行為は許されない。だから、君は死に値する。」と告げ、最後まで抵抗する1人を処刑したという場合はどうでしょう。9人の判断は正しく、9人の行為は「殺人」ではないと言い切れるのでしょうか。

人間は誰もが間違いを犯す生き物だと私は思います。それがより大規模な集団(もしくは国家)だとしても同様で、数が多いから正しいとは思えません。その間違う可能性のある判断に取り返しのつかない決定をやすやすと含めることには賛成できない。

私は犯罪者を処刑することが社会にとって、そして犯罪者にとってよいことだとは思いません。死刑存続

Death Penalty

129日に4人の死刑執行がありました。

日本人はけっこう温和で平和な民族なような気がするけど意外と死刑については厳しい意見を持っているようです。

日本のように(比較的)死刑の基準が厳格な国はまだしも、どんどん死刑執行していく国はより大きな問題があるでしょう。

死刑の抑止力は実証されていませんし、死刑が本当に犯罪者にとって最も過酷な刑罰なのかもわかりません。にもかかわらず、なぜ死刑が未だに採用され続けているのでしょうか。

死刑には常に「冤罪」の可能性があり、死刑は国家による「殺人」だと思います。ある人がある人を殺すという状況を想定する際、その加害者には何らかの動機があり、それが保険金目的であろうと、宗教的な遺恨に基づくものであろうと、ただ単に腹が立ったからであろうと、それは許されるものでは

Mt.Takao

楽しさ①

先日高尾山に登ってきました。599mと、手軽に登れる高尾山は、年間250万人(ビジターセンターのスタッフによる統計)が訪れる大人気の山です。しかも、タヌキやイノシシやキツツキやモグラ、そしてムササビなどといったさまざまな動物が見られます!!(私はどれも見ませんでしたが)

楽しさ②

さて当日、京王線高尾山口。山の麓のお店で銘酒「高尾山」を発見し、山頂でパノラマ景色を眺めながら昼酌(ヒルシャク)しようと思い、すぐに購入しました。しかし、山の澄んだ空気やきれいな小川は私のテンションを上げ、登っていると、気づけば手に持っていた「高尾山」は飲み干されていました。下っているときも、体力は消耗しているはずなのに高尾山が私にパワーをくれたのか(酒が残っていたのか)元気いっぱいでした。無事帰れて、筋肉痛もなく、山の神サン、どうもありがとう、やはり私の日頃の行いが良かったんですね。

という、大人気の楽しい山なので是非みなさん登ってみてください。(ただ、山でのマナーが悪い登山客も増えているとのことなので、山でもマナーを忘れずに...)

イキル完

な時間を過ごすことが自分の大半の行動の大きな動機となっていると体で感じている。

でも、Iさんが言ってくれたように、ネガティブな苦しい状況も「生きる」ことに必要な条件だろう。現実に横たわる苦しい状況を想定せずにただひたすらポジティブな考え方のみを良しとするのはやや理想的だと思うようになった。

その点「理想と現実の狭間」(Iくん)や、「方向性にとらわれない時間の経過」(Yさん)といった意見には共感を覚える。私は彼(女)らと同様、主張を証明するかのように、今後も自分の中庸の模索を続けたい。

※以上の検討は参加者各々の直感でしかない。が、何を「生きる」とするかは当事者の主観によるものでしかないと思われ、その点、当事者のリアルな直観を含めない、本で学んだ他人事の主張には、あまり説得力がないのではないか。

イキル3

以上の2つの意見を集約すると、「生きる」ということは「誰かと人間関係を持ち、成長すること」ということになる。

確かに「話を聞いてくれる友人」(カウンセラーも含む)や「成長の実感」はポジティブな側面での重要なキーワードかもしれない。

しかし一方で、会場には、「絶望、諦観」のどん底にいる時こそが「生」を一番強く実感したという意見もあった(Iさん)。この考え方はかなりネガティブだと思われるが、おもむろに否定できない。むしろ、偏った考えを緩和する意味で、貴重な示唆となりうる。

私の意見は述べたように、基本的には充実感を得られるといったポジティブな側面こそが「生きる」であると思っている。自分が作ったものと誰かにもらったものとを含めた幸せ

イキル2

「完全な孤独ではなく、話を聞いてくれる友人がいた」

Oくんは続けた。

「結果として思うのは、そういう人間関係が自分にとっては「生きる」条件であって、「生きる」それ自体だった」

アメリカに2年間留学していたOくんはその時にうつ病になった経験を話してくれた。

Oくんのように、誰しもが絶望の淵に入り込んだ時、何もかもが嫌になった時、「人間関係」が「生きる」手がかりとなるのだろうか。心の病を患った場合にカウンセリングを受診するということが一般化しているので、この考え方には多くの支持が見込まれる。

また会場で他に多かったのが、「成長を実感できる時」が「生きている」時であるといった趣旨の意見であった(Mくん、Mさん、Mさん等)。

イキル

生きる

私にとって「生きる」とは?

次の勉強会では皆がこの問いに答えることになっている。今回のテーマは議長の提案により決められたものだが、誰しもにとってとても大切な問いで、とても難しい問い(いや、とても簡単かもしれない)。私はその問いの答えのようなものを思い描いているつもりだが、参加者に対してはっきりと言葉にし、簡潔に表現できるのか、あやしい。問いの答えはまさに千差万別なので、参加者にきちんと伝わるかも、あやしい。さて、結論となる私の答えから言うと、充実感で心が満たされること、かな。この回答はあまりにも範囲が広くて、漠然としていて、賛成する人は多いでしょう。(この段階から反論がある可能性もあるけど...)もちろん参加者皆の一義的な答えを出す必要はないけど、何か通じるものもあるかもしれない。んー、楽しみ!!

J-3

さらに言えば、彼の「優秀さ」は「真面目さ」に起因するのではないか、と思います。

彼の優秀さはたしかに目を見張るものがありますが、それは彼の努力に胚胎しているものです。最初から何でもできたわけじゃなく、毎日コツコツと積み上げてきたからこそ今の彼があると思います。

先天的な能力、いわゆる才能も事実、存在すると思いますが、それだけではなく、努力や意志を尊重したい。

「卓越した才能vs努力の結晶」の勝敗も興味深いといえますが(やはり才能が勝ってしまいそうですが・・・)、その勝敗よりも、その過程において努力者の方が楽しんでるような気がします。もちろん、才能側も、さらに努力しうるので、まっすぐ追及し、才能を伸ばせば楽しいはず。

「楽しくなきゃ、意味がない」

Jー2

中との事。

「詳しい知識があった方が言葉の幅が広がるし、何より説得に迫力を込められる」

うーん、いいねー。カッコいい。

しかし、彼の本当にいい所は以上に挙げた点ではありません。

「営業の時に特に思ったんやけど、誠実な対応が一番大切。作ったり、ウソついたりしたらあかん。」と彼は言う。

それを聞いた時、大学時代の彼をパッと思い出しました。彼はたしかに優秀であるけれども、それだけじゃなく、本心で話すヤツでした。

優秀であるというのは武器を持っているということ。でもそれだけじゃあ、何にその武器を使うのかわかりません。その武器を私利に使うのではなく、エコロジーに使おうとする彼の心のあたたかさは本当に素晴らしいものだと思います。(あ、でももしかしたら、彼のあたたかさは僕による影響なのかも。。。笑)証券会社への貢献がそれ自体エコロジーなのかは反論の余地がありますが、それは今回は棚上げしておきます。またいずれ…