透明感溢れる師走の空を眺めていたら、衝動に駆られて高尾山にたどり着いてしまいました。
要するにカラダが余っているのです・・・
成田山新勝時、川崎大師に並ぶ三大パワースポットの一つだとメディアに担ぎ上げられてから、入山者の数も右肩上がりに昇っているらしいです。
山頂までは5つのルートに分かれていて、「岐路にたったら迷わずに苦しい方を選べ」と仏の声に従うままに一番険しい稲荷山コースを辿ることにしました。
一番険しいと誇張しましたが、山頂まではたかだか600m弱の標高なので老若男女が充分に登山を楽しめるほどのレベルです。
原色に彩られた自然のアートを堪能するというよりは、枯渇したマゾヒズムを潤すためだけにマラソン呼吸を繰り返しながら、前を歩く御年配の方々を背後から追い詰めては抜き去っていきました。
ゴールまでの所要時間が90分と表示されているにもかかわらず、わずか30分ほどでたどり着いてしまったわたしは、300円のソフトクリームを味わいながら帰りはジョギングで麓まで下りました。
いわゆるオバサン(オジサン)といわれる人種の特技に、自分の都合によって身体能力の老化具合を使い分けるというものがあります。
TPOに応じて剣幕を挙げて若さを誇示したり、もう年だからという心身の衰弱に対して言い訳を放ったりするテクニックです。
青年像、老年像、男像、女像、武士像、皇室像など歴史や文化に形創られた「かくあるべき」という社会通念の縛りを受けた倫理や規範のなかでわたしたちは生活を保ってきています。
自由経済が国境を越え、モノやヒトが地球規模で拡散するにつれると、旧態依然としたままの倫理や規範が形骸化してしまい、矛盾や軋轢は当然生じてきます。
持てるもの、持たざるものが生まれ、一方の主張が過熱して暴力に訴えた結果がムンバイで起こった悲劇なのです。
動乱の幕末の頃、徹底して尊王佐幕の精神を貫き、賊軍の汚名を着せられながらも徳川家への恩義に背くことなく老若男女一丸となって、故郷のために殉死していった会津藩の教えがここに生きてきます。
ならぬものはならぬ・・・
言動や所作から古い男呼ばわりされようとも、時代の流れという名の建前に寛容さを示しつつ、信念と葛藤しながらかくあるべき姿を貫き通している30代の男の生き様というものを考えさせられます。
泣けない、愚痴れない、女々しいことはできない・・・
働き盛りの30代、40代にうつを始めとする心身症や自殺者などが急増している背景には、このような心理的葛藤が遠因しているのです。
30にして惑わず・・・40にして立つ・・・
孔子が残した至言だが、平均寿命が人生50年だった頃から遥かに長寿になった現代では、縛りのスパンを延長させて心に余白を確保してみようかと思います。