シェアハウスで様々な住人さんのお話を聞く機会に恵まれるようになってから、私は自分が何に対して心底真面目でありたいのかをしばしば考えるようになったと言わざるを得ません。
英語で言うと私は決してIndependent(独立した)人間ではありませんが、確固たるself(自我もしくはエゴ)は持ち合わせております。往々にして、こういう人間は協調性がないため社会からは疎まれる傾向があり、それゆえやりたいことをやりたいようにやれないフラストレーションをしばしば抱えることになります。
私は幼いころから上記のような傾向がありました。そのことをはじめて自覚したのは、幼稚園の砂場でみんなで山を作っているときです。私はその山のてっぺんを潰して平らにし、富士山にしたくてしたくて仕方がありませんでした。しかし私の意見は聞き入れられず、私はその園児の共同体から疎外されることになったのです。何度もてっぺんを潰して富士山だと言い張る私はエゴ丸出しで、当然ですが嫌われてしまったのを今でもよく覚えています。
私が何かをやりたい、達成したいと思うとき、それはしばしば利己的な理由からです。したがってそれを突き詰めることは、時として自ら率先して社会的な死を選ぶことを意味します。私は自ら英国に出向き、ノンネイティブスピーカーとしてはかなり正確な文法で英語を操ることができるようになりました。そのことは心底誇りに思っていますが、私の能力を社会的に価値のあることに昇華させる段階にまでたどり着けたとは思いません。というのは、私が簡単な英語を操れることで何かいいことがあるとすれば、それは「すごい」とか「努力の賜物」と言われ私自身が満足に浸り、いい気分になるのは自分だけである側面も大きいからです。(今でこそ自分の語学力が人の役に立つのはうれしい、と思えるようにはなりましたが。)
昨日は特に、社会的文脈の絶対的な力を感じました。ある住人さんからゲーム業界どのようにしてビジネスとして成り立っているのかをお聞きする機会に恵まれましたが、その方の話によるとやはり大手は収益を得ることが最優先である傾向があるようです。クリエイターが自由闊達に本当に作りたいゲームを作るのは難しいようで、だからこそインディーズ(Independent labels)に頑張ってほしいんだとその方は話されていました。音楽業界も同様ですが、往々にして大衆向けの作品は(それが良いか悪いかは各々のとらえかたによるとして)マジョリティの陽キャラモテモテ君向けで、僕のようなマイノリティの陰キャラキモオタ君向けではありません。
上記の理由から、私は基本的にアンチ・メインストリーム的な音楽(特にThe Smithsは秀逸)を支持しています。同じ夜、南流山のミュージックバー(今後機会があれば紹介します)で、今度は別の住人さんと簡単なセッションを行ないましたが、実力がなさ過ぎてもし私が本当にミュージシャンを目指していたらインディも大衆向けも関係なく、ただ下手で誰にも見向きもされない独りよがりのギターを抱えた寂しい痩身男になっていた自分を想像しました。結局自分を好きになれずにいます。
私は好きなことで本当の実力を身に着け、評価されたい。そうなるために何をすべきなのかを考え続ける葛藤の日々が続いています。
本日はこの辺で失礼いたします。
たまき